お坊さんと舞子さんの演出

こんにちは、

東京です。

空港で荷物が出てくるのを待っていたら、ジュラルミン製のスーツケースが冷えた缶ビールの様にびっしり汗をかいて出てきています。東京はもう亜熱帯になってしまったんじゃないかと思うくらいです。

いろいろやる事はたまっているのですが、お盆です。都内は車の量も少なくゆっくりと時間が流れている様で良いです。

今日はお盆の思い出。

子供のころ、滋賀の実家ではお盆の前後に玄関先でおがらを焚いて、迎え火と送り火をしていた。迎え火の際に両親から「おじいちゃん、帰ってきはるんやで」と言われて素直にお盆中は「帰ってきてはるんや」と思っていた。

また、お寺さんが家に来てお経をあげてもらうのも恒例で、そのお寺さん(お坊さん)の仕草や雰囲気に背筋がのびる感じを持っていた事を覚えている。

お経が終わった後に長めの間を置いて、振りかえり、ゆっくりとお茶をすすって、また間を置いて「、、、このあたりも、随分と変わってきましたなぁ。」など世間話。しばらくして。お礼のお菓子なんかもさっとどこかから風呂敷のような物をだして、またさっときれいに包んで袖の中に入れて、、と流れる様な動き。今思うと、その場を境内のような雰囲気に変えてしまうくらいの力があった。

この感じは、京都の舞子さん芸子さんにも共通している。これも随分前になるが、オーストラリア人デザイナーの友人と京都を訪れた際、近しい方の好意で置屋さんから舞子さんを呼んでもらい、お茶屋さんで懐石料理を一緒に食べたことがある。

細かな動作はいちいち、ため息をついてしまうくらいに惹き付けられた。立ち上がりかた、座りかた、部屋に入る動作から、お箸の扱い、話し方や細かな仕草まで徹底していて、ふすまの動きなんかは何とも優雅な舞台装置のようだった。

これは、何れも何百年と続く歴史の中で、見られる立場として、どのような振る舞いが受け手にどう伝わるかと言う事が伝えられてきたのだと思う。茶道や華道も同じだろう。元は優雅に振る舞う人の動きを分析して一般化していった蓄積なんだろう。

京都の話は少し続きがある。お茶屋の女将さんと舞子さんが翌日に京都を案内してくれるというなんとも嬉しい申し出があった。しかし、その友人が雰囲気に飲まれてしまったのか翌朝体調を崩し、まったく動けなくなってしまった。泣く泣く断ることになった。

 

 

 

 

kosuke shimada / 嶋田 耕介

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